憲法記念日の日に憲法記念日に考える――人権と司法の独立について憲法記念日の日に

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私は改憲派です

少し個人的な話になりますが、私は憲法改正に賛成する立場、いわゆる「改憲派」です。

私は戦後生まれなので、太平洋戦争の記憶はありません。

それよりも、私の記憶に強く残っているのはウクライナ戦争や湾岸戦争といった、より現代に近い戦争です。

「憲法のはなし」と人権尊重の原点

小学生の頃、「憲法のはなし」(宮沢俊義氏著)という本をもらった記憶があります。もしかすると記憶違いかもしれませんが、確かに手元にありました。

しかし、当時の私はその本を真剣に読むこともなく、やがてどこかに行ってしまいました。

彼は旅に出たまま帰ってきません。

それでも、人権を尊重することの意味は理解しているつもりです。

私たちは子どもの頃から、「他人の嫌がることをしてはいけない」と教わってきました。

私はこのブログで自分がした抵当権抹消登記について書いていますが、これはあくまで自宅の抵当権の末梢のはなしです。

さらに、相手方については全く触れていません。そんなことをすれば一気に信用を失います。

他人から信頼を失うような行為は決してしないということです。

それこそが、人権尊重の基本なのではないでしょうか。

死刑制度と裁判官の責任

昔、ある方から「裁判官は合法的に人を殺せる」と言われたことがあります。その方は、いわゆるリベラルではなく、むしろ保守的な考えの持ち主でした。

この言葉の背景には、日本の制度上、死刑判決を言い渡す権限を持っているのが裁判官だけだという現実があります。警察官には逮捕権、検察官には求刑権がありますが、最終的に死刑を宣告できるのは裁判官だけなのです。

元最高裁判事の団藤重光氏も、在職中に死刑判決を下した経験があり、その際「人殺し」と非難されたことで、死刑制度に疑問を抱くようになったとも伝えられています(記憶があいまいですが…)。

袴田事件が教える冤罪の重さ

もちろん、裁判官も人間です。過ちを犯すこともあれば、警察が証拠をねつ造するようなことも実際に起こり得ます。その象徴ともいえるのが、袴田事件です。

袴田さんは死刑囚として実に48年近く拘束されましたが、後に無実が証明されました。司法の過ちが、いかに重大な人権侵害につながるかをこの事件は如実に物語っています。

こうした冤罪事件を二度と起こしてはならないと、司法に関わるすべての人が心に刻むべきだと思います。

本人訴訟で見えた司法の姿

私自身、簡易裁判所で本人訴訟を行い、勝訴した経験があります。

これは私の人生において、大きな転機となる出来事でした。

とはいえ、袴田事件のような国家の責任が問われるような大事件と比べれば、私の訴訟はごく小さなものであり、あくまで個人的に重要だったに過ぎません。

学生時代、「憲法判例百選に載るような事件は、新聞の一面を飾る重大事件だ」と教えられました。尊属殺違憲判決、八幡製鉄事件――どれも日本の司法史に深く刻まれた判例ばかりです。

司法権の独立とは何か

芦部信喜氏の『憲法』には、司法権の独立について次のように書かれています。

  • 司法権が立法権・行政権から独立していること
  • 裁判官が裁判において独立して職権を行使すること

このうち、特に重要なのは後者、つまり「裁判官の職権行使の独立」です。

これは、国会や内閣といった国家権力だけでなく、一般の市民やメディアの過度な干渉からも守られるべきものです。

袴田事件と「取材」の線引き

袴田事件のように、死刑判決が出されたあとで冤罪が明らかになった事件においては、裁判官経験者への取材が社会的にも一定の意義を持つことがあります。

実際、この事件では多くの弁護士や報道機関が関わり、司法のあり方を問う契機となりました。退官した裁判官の証言も、将来の冤罪防止という観点で価値があると考えられます。

しかし、だからといって「すべての裁判で、判決後に裁判官へ取材してよい」とするのは危険な考えです。

まあ、裁判所が断るので心配する必要もないのでしょうが…。

もし、民事事件や通常の刑事事件においても、判決後に裁判官へ直接取材を試みるようなことが当たり前になれば、裁判官の中立性や心理的な安全が損なわれてしまいます。

取材を断るという行為自体も、裁判所や裁判官にとっては相当な負担になりますし、最近ではYouTuberなどによる無断の突撃取材といったトラブルも起こっています。

そうした行為が広まれば、正当な報道機関による必要な取材ですら拒否されるようになるかもしれません。

また、「退官後もマスコミや関係者に付きまとわれるのではないか」と感じる人が出てくれば、裁判官に任官しようとする人材が減るおそれがあります。

これは、司法制度の根幹を支える人材の確保に悪影響を与える、極めて深刻な事態です。

裁判は、あくまで判決によって完結するものであり、裁判官の判断は、理由を含めて公の判決文に記されています。それが裁判所としての説明責任の基本です。

無制限な取材が常態化すれば、司法制度の根幹を揺るがしかねません。

私達一人ひとりがこのことを心に留めて置かなければいけません。

判決文の「理由」に見る誠実さ

判決文には「主文」だけでなく「理由」があります。特に敗訴した当事者が納得できるように、裁判官はなぜその判断に至ったのかを丁寧に記します。

私の訴訟でも、被告が提出した答弁書や、私に送ってきたメールなどをもとに、事実関係が慎重に認定されていました。

傍聴人は一人もいない裁判でしたが、私にとっては十分な説明を得られたと感じています。

自由と理性と「公共の福祉」

人には、自由に生きる権利があります。けれどもその自由には制限があり、憲法ではそれを「公共の福祉」と表現しています。

自由とは、好き勝手に振る舞うことではないのです。

子どもの頃、「人間が動物と違うのは、理性があるからだ」と教えられたことがあります。私は犬が好きなので、その言葉が常に正しいとは思いませんが、それでもできるだけ理性的にありたいと願っています。

おわりに

憲法記念日を迎えるこの日、改めて「人権」や「司法権の独立」について考えてみました。

制度を支えるのは、人間です。そしてその人間を支えるのは、社会の理解と節度ある関わり方なのだと、私は信じています。

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