「話し合い」が成立する社会とは

最近、選挙などで罵声を浴びせて喜ぶ風景をみます。

アメリカでは、共和党の大統領候補者のドナルド・トランプ元大統領が銃撃されるという事件が起きました。

ここまで来ると「自分の意見を口にすることは危ないことなのでは」とすら感じてしまいますよね。

私は個人的な価値観の違いについては、その価値観が反社会的なものでなければ、それほどとやかく言う気はありません。

ただ、価値観以前の問題であれば、それは強硬な対応をとります。

私の出身小学、中学は非常に荒れている地区のあれている学校でした。

学校内で暴力事件や脅迫事件、女子生徒に対するわいせつ事件など日常茶飯事でした。

また、女子生徒の中には、自身の家庭の事情を教師や生徒たちが知っており、遠慮しているのをいいことに、生徒を脅して嫌がらせをしたり、また、暴れ放題の輩もいました。

このうちの一人には、小学校時代から、私も付け狙われ嫌がらせを受けました。

中学時代、何故か加害者がこの女子生徒を恐れていたため、仲良くしていた所「あんた、誰か有名人紹介しなさいよ」と脅迫を受けたこともあります。

また、この生徒の仲間の女子生徒からは「ぶっ殺すぞ」「死にてえのか」などと言った脅迫を日常的に受けていました。

ここまで来ると、まともではないですよね。

私は兄が有名私立中学に通っていましたし、父が社会的に地位の高い職業だったため、お金をゆすられることはありませんでしたが、そうでなければ、お金をゆすられていてもおかしくなかったと思っています。」

当時通っていた中学は、非常に荒れていた学校だったため、教師はこういった問題に対処しませんでした。

そのため、卒業するまで我慢し続けていました。

私は小学校5年生くらいから両親に対し「〇〇がいるから転校したい」とずっと言っていたのですが…。

もしその時に転校していれば、その後の被害もなかったのかもしれません。

私の家は比較的裕福で、家庭環境も良好でした。

中学時代の友人にも裕福な家庭で育ってきた人間もいます。

ただ、私は家庭環境で人を差別する気はありません。

しかし、その一方で、ある特別な環境にあればその人間はすべて正しいという価値観もありません。

中学時代のバレー部の同級生には、母子家庭の人物がおり、彼は毎朝新聞配達をしてから学校に来ていました。

その一方で、母子家庭であることをいいことに、勉強もろくにすることなく、他人をゆすり放題の人間もいました。

母子家庭が大変なのはわかりますが、両親がいる家庭の中にも大変な家庭はあります。

私は両親が中学時代にいましたが、彼らより過酷な中学生活を送っています。

家庭環境のせいで勉強することがこんなである方がいたとしても、それが他人をゆする理由にはならないと思っています。

これは色々な意見があると思いますが、私は中学時代のバレー部の同級生のような人間は好きですし、高校受験の際にも彼については「(教師が)何とかしてやればいいのに」と思っていました。

その位の思いやりは私には備わっています。

しかし、他人を脅して喜んだりした場合は別です。

大学時代の同級生が、私が中学時代「ぶっ殺す」と脅されていたという事を聞いた時「なんで殺されなあかん年」「そんなやつらと仲良くしたくないわ」と言っていました。

当たり前ですよね。

私も仲の良い友人に対して「殺すぞ」などと言った事はありませんし、友人を脅したこともありません。

というより、脅した時点で通常は人間関係が終わりますよね…。

今思い出しても、そういうことをするのはその連中以外は思い当たらないです。

という事は、大半の生徒はまともな感覚があったのだと思います。

学校の教師は「話し合え」というのが好きですよね。

そう言いながら心の底では「面倒なことを俺に持って来るな」と思っているだけの場合があるのですが…。

ただ、この「話し合え」という言葉にも注意が必要ではないでしょうか?

話し合いというのは、正常な人間関係があって初めて成立します。

問題を起こしながら全く反省せず、他人を脅す人間や、他人にたかる人間との話し合いなどできるわけがありません。

だって、まともな人間関係がないんですから…。

「話し合い」の前に、まともな人間関係を築くことが大事なわけです。

小学校3,4年の時の担任の先生はこのことがよくわかっていました。

その先生は、問題を起こしたら「すぐに謝りなさい」と私たちに指導しました。

彼女に言わせると「後になって謝っても「あいつは自分が出世したから言っているだけ」と思われる」「なんでいまさら言ってくるんだ」と疑われる」というのです。

さらに人間関係がこじれた場合は、「謝っても気が付いてもらえなくなる」という事も言っていました。

また、彼女は「家庭環境が大変な人間がいるのはわかる。でも、それが努力しなくていいことにはならない」という事も私たちに言っていました。

厳しい言葉かもしれませんが、事実ですよね…。

ただ、こういうことを言われても「あんたいい教師じゃないわ」と言った生徒もいるのですが…。

ちなみに、その理由は「自分を言い生徒と言わないから」だそうです…。

意味が…。

今思い出しても、昔はいい先生がいたなと思います。

こういうことを子供のころから教わっていれば、他人に対し脅迫するなどという事は思いつくことがないと思います。

小学校3年時の写真を見てみると、中学時代に学校で問題を起こしていたのは1,2人というのも分かる気がします。

何を教えるかって本当に大事なのだなと思います。

「三つ子の魂百まで」と言いますが、子供の頃に身につけたいい習慣というものは、長い間持続します。

子供の頃「他人を大事にしなさい」と教えられた子供は大人になっても相手を大事にすると思いますし、子供のころから質の悪い子供同士で付き合っていれば、質の悪い大人になっていきます。

「話し合い」が成立する社会にするためには、子供のころから正しい習慣を身につけることは大事なのではないでしょうか?

もちろん、その中には勉強する習慣も含まれることは言うまでもありません。

兎にも角にも、他人に迷惑をかけることを「話し合い」という風潮が広まることだけは、やめてほしいものだと切に願います。

最後までお読みいただき有難うございました。

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